お疲れ主婦のひとりごと@アメリカ

アメリカにいる普通の主婦です。

留学生だった私(3)

ラテン系の集まりにいると、試しにカタコトのスペイン語で自己紹介してみたら、「発音がいいね!上手だね!」と褒めてくれる。スペイン語をそのままローマ字読みで日本語のカタカナの発音で読んでも、彼らには聞き取りやすいらしく、英語のように「Excuse me?」「Pardon?」「はあ?」と聞き返されて萎縮することもない。嬉しくて調子に乗って、教えてもらったり覚えたスペイン語を聞いてもらったりした。

 

流暢に会話できるほどではなかったが、最初はただの雑音にしか聞こえずちんぷんかんぷんだった人々の集まりの会話がなんとなく「何を話しているか」わかるようになって来た。

 

ルームメイトのCの両親はエクアドル人で、Cも自分はアメリカ生まれのエクアドル人だと誇りを持っていた。その時に語学学校に多くいたのがベネズエラ人だったので、ベネズエラ人の友達もでき、仲良くなったベネズエラ人のDをCに紹介してあげたらすぐに意気投合し、CとDも仲良くなった。Dはとても社交的なので、語学学校にも南米人の友達がたくさんおり、出身もメキシコ、コスタリカボリビア、コロンビア、と様々で、陽気でフレンドリーな彼らはよく集まってパーティーをしていた。

 

私とCがルームメイトだったのをきっかけに語学留学生と南米系アメリカ人の交流が広がったのを嬉しく思った。CとDと仲良かった私はスペイン語が少ししかわからなかったのに、いつもパーティーに呼んでくれて、皆に「私の友達、ハポネサ(日本人)よ~」よ紹介してくれた。日本人(アジア人)はいつも私一人だったので、目立っていたに違いない。

 

語学留学中に知り合った友達とロードトリップもした。フロリダとNY。フロリダには男女混合の5人で。そのうち、私とオランダ人の友達以外は南米人。NYに一緒に行ったのは語学学校で仲良くなったアルゼンチン人。ちなみにこのオランダ人は私の友達Dの友達で(それが縁で仲良くなった)、語学留学生ではなく大学院生だった彼女はスペイン語を習得し、その後Dの国であるベネズエラに移住もしてしまった!

 

日本人から無視され、仲良くなったのがラテン系の人達だったので、日常的に日本語を話すことは全然なかった。当時はインターネットもなかったし、親への電話は高くてたまにしかできなかったし、手紙を書くのも面倒くさかった。日本語のない環境にいたので、英語の聞き取りは上達したと思う。そして予想していなかったスペイン語の上達。英語と同様スペイン語の聞き取りにも耳が慣れて来て、スペイン語を言語として習得することに興味を持ち始めた頃に、私の語学留学は終わった。楽しくて本当にあっと言う間に終わってしまった。

 

 

 

 

留学生だった私(2)

日本人と殆ど関わることがなくなった私の友人関係は主に語学学校のクラスメイトと大学寮のルームメイトだった。

 

都市柄南米系の住民が多く、家族親戚を頼って来る南米系の語学留学生も多かった。一方アジア系の留学生も多かった。日本人と共に多かったのが韓国人と中国人。日本人は文法や読み書きができる人が多いので、語学学校ではテストの結果上級クラスに入れられる人が多い。私も上級クラスに入る事になり、クラスメイトもアジア人が多かった。すぐに韓国人のBと仲良くなった。Bは私よりも年上で日本で働いたこともある才媛。英語で会話に詰まるとBが日本で説明してくれたりした。

 

南米系のクラスメイトもいて、彼らは文法や読み書きはイマイチだったが、会話力がものすごく高かった。流暢な英語をすらすら話しているのに、筆記テストの点数が悪いのだった。この明るい南米系のクラスメイト達ともすぐ仲良くなった。

 

私のルームメイトCは両親が南米からの移民で、アメリカで生まれ育った。学校では英語でも家で両親と家族とはスペイン語と言う環境で育ち、完璧なバイリンガルだった。なので私が日本人で語学留学をしているのをすごく理解してくれて、わかりやすい英語で根気よく会話してくれた。また陽気で包容力あるラテン系ファミリーで育ったので、家族もおらず一人で留学している私をいつも大学から車で30分くらいの実家に誘ってくれた。Cのお母さんがこれまたラテン系の優しい肝っ玉母さんで、「私をあんたのアメリカのお母さんだと思いなさい」と、Cが実家に帰る時はいつも一緒に連れて行ってもらい、サンクスギビングやクリスマスと言った家族イベントも寂しい思いをすることがなかった。

 

そして私が縁でルームメイトのCと南米系の語学学校の友達も繋がるようになった。Cは自分のルーツの友達ができて彼女のスペイン語を使うことができて嬉しそうだった。私のルームメイト、語学学校の友達も繋がり、私はいつの間にかいつもラテン系の人達に囲まれているようになった。そうすると彼らは自然と皆スペイン語で会話している。私に気をつかって英語で話してくれるが、私が彼らの言葉を理解したいと思うようになった。

 

 

留学生だった私(1)

Twitterで留学時代の話を書いたらなかなか反響があったので、もっと詳しく書くことにした。あまり詳しく書くと身バレしてしまうかもしれないので、どこまで詳しく書けるかな?

 

私は元々英語が好きだったので、私立の英文科と専門系大学を受験した。専門系大学が当時は難関大学と言われ、倍率も高かった。運よく専門系大学に合格したので、受かっていた英文科をやめてそっちに行くことにした。大学在学中は専門系の勉強をしていたがやはり英語は好きで、この大学を卒業して英語とは縁のないだろうこの業界で仕事をして行く前にずっと前から憧れだった語学留学をしてみたかった。当時自営の両親もバブルで景気がよかったので、頼み込んで語学留学をさせてもらうことになった。大学3年生が終わり、1年休学してアメリカに留学することにした。

 

選んだのは比較的日本人留学生が少なめのアメリカでは大きい方の都市。日本は景気がよかったので、とにかく日本人留学生が多かった。少ないとは言われていても私の学校でも結構日本人留学生がいた。

 

そこは大学付属の語学学校(ESL)で、希望すれば大学寮に入れ、アメリカ人のルームメイトにしてくれる。ルームメイトと合わなくて部屋を変えたり、結局個室にしたり、寮の食事や生活が合わなくてアパートに引っ越したりする留学生もいたが、私はラッキーなことに、ルームメイトととても仲が良くなった。ルームメイトについてはまた後で登場することになる。

 

日本はバブルだったので、日本人留学生も裕福な人が多かった。私は庶民なので、親のかけなしのお金を出してもらって来ていたので、目的である英語力を向上させたかった。英語を勉強しに来ているのに日本人と一緒にいるのは意味がないと、飲み会や遊ぶのを誘われるのを断り続けていると、そのうち誘われなくなった。新しく来た日本人は飲み会やパーティーに誘われると、必ず行くものと言う暗黙の了解を私は知らなかった。

 

そして日本人から無視され始めた。そのうち仲間はずれにされた。あいつは日本人のくせに日本人とつきあわない差別者だ、いい気になってる、と陰口を叩かれ始めた。こんな私でも仲良くしてくれる日本人は2人くらいいて、その友達が日本人グループで愛想もよく飲み会とかの幹事をやっているAが私の悪口を広めていると教えてくれた。最初の数回は食事会や飲み会に行っていたのだが、誘って来たのがAだった。

 

割といた日本人留学生から無視され仲間はずれにされるのは悲しかったが、別に日本人とつるむために留学したわけじゃないので、すぐに開きなおり、意図しなかったが日本人と殆ど関わらない留学生活を送ることになった。

義母が亡くなった

先日夫の母(義母)が79歳で亡くなった。

 

私達は後日知る事になったが、看取りから死後の手続きを全てやったのは夫の兄夫婦だった。義母の終の棲家はホスピスだった。

 

夫の父は10年程前に他界しており、これで夫は両親共に失ってしまった。私の日本にいる両親は幸いにも健在でいてくれて、少なくとも子供達には母方の祖父母はいることになる。

 

義母の死にあたり、色々考えさせられることがあった。ツイッターでは書ききれないのと、義母の死を告知する必要もないので、こちらでまとめることにする。

 

義母はパーキンソン病を患っていた。夫と知り合い、夫の両親に初めて会った時は、既に発症していたが、初期だったので義母はまだ歩行器を使い、家の中を一人で歩いて移動することもできたし、耳は遠くなってはいたがそこそこ普通に会話もできた。義父が主に介護をしていたが、義父も老いて来ていたので、老老介護だった。

 

その後義父が他界すると、パーキンソン病が進行していた義母が一人で暮らすのは無理だろうと、義兄の自宅の近くにあるグループホームに引っ越した。ここは閑静な住宅街の一軒家に介護が必要な老人5-6人と、ナースや介護士が交代で常駐する24時間ケアの小規模老人ホームだ。

 

グループホームに入居時は既に歩行はできなくなっており、車椅子生活になった。それに加え認知症も始まったようで、訪れた夫の話を何度も聞き返したり、うわの空で遠くを見ていたりした。訪問する時は時間帯を連絡しておくと、それに合わせて義母をリビングルームかパティオに連れ出して待たせておいてくれた。スタッフはフィリピン人が多く、とても明るくフレンドリーだった。

 

元々物静かで社交的でない義母の趣味は手芸やジグソーパズル。パーキンソン病が進行し手芸はできなくなったが、パズルは不自由な手を使ってゆっくりコツコツと仕上げていた。

 

ところがここ数年でパーキンソン病認知症も悪化し、私達家族が会いに行っても会話がもうできないのと、自分の息子(夫)が誰かもわからなくなって来て、この先そんなに長くないかもしれないことか夫の家族もわかっていた。

 

数ヶ月前にはとうとう食欲もなくなってきて、義兄夫婦はナースに「まだ食欲があるうちは大丈夫ですが、段々食欲もなくなってきたので、そろそろポスピスケアを考えられたらどうですか?」と提案されていたらしい。

 

アメリカのホスピスは、死期の近い人が苦しまずに穏やかに最後の時を迎えられるよう、痛みや苦しみの緩和ケアが中心になる。治らないとわかっている病気の治療や延命措置は基本しないし、家族もそれを望んでいない場合が多い。

 

アメリカに寝たきり老人が多くないのは、自力で食事ができなくなる、呼吸ができなくなる、家族を認識できなくなる、と言う段階になると、胃ろうや呼吸器をつけてまで延命はしない傾向があるからなんだろうかと感じた。

 

義母のホスピス関係者は、ホスピスに入ると平均半年くらいで亡くなる人が多いと言う。かなり弱っていた義母もホスピスに移動してから1週間くらいで息をひきとった。呼吸器をつけた数日後眠るように亡くなったらしい。

 

実は私の20数年前に亡くなった祖母も同じパターンで、パーキンソン病と診断されてから10年くらいかけて徐々に弱って行った。私の母は実家で一人で10年間も介護をした。父は婿養子なのと昔堅気な夫であったため、一切母を手伝う事はなかった。当時はパーキンソン病患者の介護は国の援助を受けるのが難しく、母は外部サービスに頼ることもできなかったので、10年間自宅で24時間介護を続けた。私はその時高校~大学だった。自己中なティーンエイジャーだったので、24時間介護をする母を大変だなとは思いつつも何も手伝わなかった。

 

祖母の晩年になると、動けなくなり自分で食事も排泄もできなくなったので、母がほぼつきっきりだった。胃ろうはしなかったので、流動食を食べさせるだけで1-2時間かかり、下の世話も大変だった。母はいつも疲労困憊していて、認知症の祖母からはいつも理由もなく文句を言われていて、夜も薬の副作用で幻覚を見て何度も起きる祖母に付き添って寝る時間さえなかった。私と弟達はいつも放置されていたが、それも仕方なかったんだろうと今なら思える。その時は親の介護は子供がして当然だったので、母は外部や老人ホームに頼ることなく、最後まで24時間祖母の介護をし看取った。

 

義母の場合、義父の遺産や年金で最初から老人ホームに入り、段階を経てホスピスで亡くなったが、直接介護をしたのは義父だけで、後見人として経済的に義母の面倒をみていた義兄夫婦も直接介護をすることはほとんどなかった。同じ病状で亡くなったが、祖母(25年前の日本)と義母(現在のアメリカ)の最後の状況を比べても大きく違う。アメリカは家族が子供が介護をするものと言う感覚がないので、老後は老人ホームに行ったり、自宅であれば訪問介護を頼む人が多い。

 

文化の違いもあるが、段々と弱って行って長くはないだろうと言う義母を外部サービスに任せてそれほど生活に影響されなかった義兄夫婦のやり方と、最後の最後まで外部に頼ることなく死の直前まで全部一人で身を粉にして祖母を介護した私の母。後になって母によく一人で全部介護したよねと言うと、「辛くて大変だったけど、実の母を死ぬまで自分で介護できて全く悔いはない。もし外部に任せていたら、もっと自分がしてあげればよかったと後悔していたかも」と答えた。

 

幸い私の両親はまだ健在で介護は必要ないけど、いつか必ず来るその時が来たら、遠く離れた私は何ができるのだろうかと心配している。

SNSを使い分ける

前のブログでも言ったが、私はSNSは一通りやっている。今はSNSを使い分けているので、以前と比べて所謂「SNS疲れ」することなく、いい感じで続いている。(2017年8月17日現在)

 

以下私のSNSの使い分け。使用頻度の高い順。

 

1)Twitter

繋がっている人々:9割知らない人。リア友少々。

目的:コメント返しや反応も期待せずただ単に気楽につぶやきたい時。大勢の人の意見を知りたい時、話題のテーマを知りたい時。

使用頻度:ほぼ毎日か数日おき

 

2)Instagram

繋がっている人々:半分知らない人。知ってる人の中の7割が子供の友達やママ友、つまり深い仲ではない人。

目的:コメント返しや反応が必要ない時。自分の好きな写真を載せたい時。今時の子供達の生活や何が流行っているか知りたい時。

使用頻度:数日おき

 

3)アメブロ

繋がっている人々:9割知らない人(育児ブログなので子持ちの人がほとんど)。アメブロをやっているリア友少々。

目的:自分の経験で経験を得た時、有益な情報を発信したい時。育児で苦労したり悩んだりしているのは皆同じだと思う時。

使用頻度:毎週か数週間に1回

 

4)FACEBOOKMIXI

繋がっている人々:付き合いの長さ深さに関わらずほぼ全員リアルで知っている人。

目的:もうほとんど更新していないが、友人知人の近況を知りたい時。コメントもほとんど残さず。

使用頻度:年に一回くらい、ホリデーカードのノリ。

 

 

 

 

アメリカ生活も長くなった

現在の私は「三人の子持ち主婦」

 

一番頻度の高い呼称は「○○ちゃん(子供三人それぞれ)のお母さん」。一番長く続けているブログは長男のひでおが赤ちゃんの時から始めて10年以上になる育児ブログ。

 

末っ子のなおが小学2年生になり、ようやく「○○ちゃんのお母さん」ではない自分を取り戻しつつある。

 

本来書くことは好きで、高校生の頃は漠然と文系の仕事=書くかそれに関わる仕事(マスコミもいいかな~)とも考えていた。

 

結局書く仕事にはつかなかったが、読書が趣味で国語も得意、書くことも好きだった私は、アメリカ在住歴が人生の半分になってしまったのにも関わらず、英語と日本語がちゃんぽんにならず、日本語力は維持している。

 

子供繋がりで色々な日本人と知り合うのだが、アメリカ在住20うん年と言う人にはあまり会うこともなくなり、数年から10年程度の人によく会う。2年前駐在で来たとか、結婚して来て5年とか聞くと、

 

「私はアメリカが長くなったな」

 

と思う。留学だけ、駐在だけ、結婚してから、と言う人が多いので、「留学→就職→結婚→離婚→再婚→転職→妊娠→出産→現在に至る」と大人になったからの出来事を全てアメリカでしてしまうと、人生の半分がアメリカになってしまうのだ。

 

ツイッターでは私の日々の雑感のつぶやきが多いのだが、最近140字ではおさまり切らず、何度も同じテーマで途切れ途切れでつぶやいてしまうので、新しくブログを始めた。

 

もう1つのブログと違って字ばかりで写真もないが、ツイッターでおさまり切らずにはみ出てしまったつぶやきの続きとして気楽に更新して行こう。